またまた久しぶりのブログ更新になります。
あれから、ヒヴァでちゃんと体を洗いましたよw
ヒヴァからアルメニアに着くまで、全てトランジットビザ
での移動だったので、この旅始まって以来の大急ぎ!!
そのために、更新が遅れたことをお詫びします。
早朝にトルクメニスタンへと出発。
深夜に首都アシュガバードに到着。
3日目にはカスピ海に臨む港町、テュルクメンバシュへ向かい貨物船に乗船。
4日目には、カスピ海を横断し、アゼルバイジャンの首都バクーにいました。
5日目には、イランとの国境付近の町、アスタラで一泊し、
6日目には、イラン入国。
7日目は、”世界の半分”エスファハーン。
8日目は、ペルシャの遺跡が美しいペルセポリス。
9日目は、イスラム教シーア派の聖地、マシュハド。
10日目は、イランの首都、テヘランで過ごしました。
11日目の14:00に、アルメニアの首都、イェレヴァンへと向かうバスに乗り込み、
12日目の2:00に国境を越え、13:00にイェレヴァンに到着。
イランではテヘランで一泊以外、全て車中泊。
またしても風呂に入らない生活を強いられていましたw
それにしても、この12日間は内容の濃いものでした。
イェレヴァンにいる間に報告していきたいと思います。
では、まず前回の“過酷なバス”の続きをどうぞ。
窮屈なバスから、砂埃に覆われ色あせた看板が並ぶ
町の入り口へと降り立った。
ここが“船の墓場”の町、モイナック。
そこからタクシーで、町に一件しかない、
ホテルへと移動した。
ホテルへ向かう車中、窓から見える光景といえば、
地平線と砂漠、廃墟と化した無数の建物
子供のころに見た、世紀末を舞台にした
アニメの世界観にそっくりだった。
“世界の終わり”とはこんな感じなのではないかと
想像させられる。
ここがその昔、港町として栄えていた姿を想像させるものは
見当たらなかった。
ホテルに着き、部屋を取ろうとするが、
3日前から、中国系企業の従業員が
30人近く宿泊しているため、満室だといわれる。
どうやら、石油会社の試掘作業員のようだ。
他に泊まるとことがないため、庭にテントをはらせてくれないか
と交渉する。すると、従業員の方が
自分の家に泊まっても良いと言ってくれた。
恐らく私達の姿があまりに悲惨だったのだろう。
(前回、恭平が書いている通り、今回のバス移動はかなり厳しいものだった。)
荷物を置かせてもらい、夕焼けに染まる町を散策してみることにした。
ホテルの裏手に、モニュメントがあるという。
世界大戦で戦死した人への祈念碑だそうだ。
無人のビルと傾いた電柱を眺めながら、
砂で覆われた道を歩く。
モニュメントは、町が一望できる丘の上、
町の反対側へ、どこまでも伸びる道路の横に
忘れ去られたように立っていた。
そこから、かって水平線があったという方向を見渡す。
砂と岩、背の低い草木が永遠と続いているだけ。
そこに水の姿は見当たらず、ただただ
深くなる紫色と、緑が点々と入った砂色のコントラストのみ。
崖の上から、下を見下ろし、
昔あったはずの湖の姿を想像してみる。
潤いを含んだ風が頬をなで、
船の明かりと、今よりもっとにぎやかだっただろう
町の様子を。
<かってそこにはアラル海があった。
世界で第4位の巨大な湖が。
しかし、ソビエト時代、経済の安定と食糧危機
を解決すべく、綿花と農作物生産のために、
アラル海とそこに流れ込む川(シルダリヤ川とアムダリヤ川)
からの灌漑が始まる。海に流れ込む水の量に対して
あまりに多くの水を灌漑しすぎたため、
80年代には1/10の水しかアラル海に流れ込まなくなっていた。
アラル海の消滅は人間の手によって引き起こされた、
最悪の環境問題といわれている。
1986から1993で16メートルもアラル海の水位は低下
東から80Kmに渡り乾ききる。
結果、アラル海は1987年に北と南に分裂
モイナック、カザフスタンのアラリスクは
6万人もの漁業関係者が生活を営んでいたが
今では2千人にまで人口が減った
アラル海にはもう魚はほとんどいない。
20種類を超える絶滅危惧種も
1985年には全て消え去った。
過度の灌漑による産卵や生息場所の減少、塩分濃度の上昇、
周囲の綿花畑等からの農薬汚染による絶滅だった。
アラル海が乾ききることで周囲に環境もおおきく変化した。
空気が乾燥し、冬場の気温が低下、夏の温度も上昇。
雨の降らない日数は1950年では30~35日であったのに対し、
現在では120~125日までに増加。
こうして乾いた大地から、砂、ほこり、そして塩が風に巻き上げられ、
そこへ綿花生産のために使用される農薬の化学物質が混ざることで、
広範囲が汚染された。
これによりアラル海の南部、
モイナックからトルクメニスタンにかけて
人体に多大なる被害をもたらした。
体調不良や気管支の癌、肝炎などの病気が増加。
ソ連の中で、モイナックが一番、
平均寿命と出生率が低くなり、
奇形児、早産、流産の確率が高くなった。
新生児の死亡率が10人に1人。
イギリスでは100人に1人だということを
考えれば、驚くべき数字だ。
昔は、アラル海の周辺には森林が広がっていたが、
現在では1/5の大きさになっている。そのため、
1985年には173種類の動物が生息していたが、
現在では38種類まで減ってしまった。
また、水鳥も、生息地の減少により、
多くが姿を消した。
現在モイナックはアラル海から
150~200Kmかなたにある>
(Lonely Planetより抜粋)
次の日、ホテルから30分ほど離れたところにある、
“船の墓場”に訪れた。
映画の撮影で仕様されたため、白く塗られた「カラカルパキア号」の周囲に
5~6船の残骸を見ることができた。
赤茶色に変色した船体だけがただ、昔の町の記憶を残したまま、
風化しているようだった。
以前は、あたり一面に、動けなくなった
船たちが取り残されていたらしい。
しかし、昨今の鉄の価格上昇に伴い
錆の少ないものは回収されていったそうだ。
遠くからでは分からなかったけれど、
小さな水たまりが点在していた。
水溜りの周りには白い、雪のようなものが
固まっていた。踏みしめると
ザクザクと音を立てた。
地表を覆う塩の塊だった。
一隻の船の残骸によじ登り、この奇妙な景色の中で
人が生きることと自然との関係について、
しばし考えた。
モイナック最後の夜。
ジャガイモの煮込みとトマトサラダ、
ナンとチャイをおいしくいただいた。
ホームステイをさせてもらっていたお宅のお母さんに
モイナックのことについて教えてもらい
(ロシア語なので、フィーリングで理解したつもり)、
子供と「アルプス一万尺」をして遊んだ。
ホテルも私達の泊まったお宅も水道がなかった。
ポットにぬるま湯をもらい、
手足と顔を洗わせてもらいながら、
ここの人々はどうやって入浴しているのだろうと不思議に思った。
翌日朝7時、バスに乗り込んだ。
教科書の写真で見ていた町、モイナックを後に
次の目的地ヒヴァへ向かう。
と、Lohasについて考えるLohaspacker真野は慣れないシリアス文体で書きました。
日本とは離れた場所の問題ですが、皆さんにも少しだけこの問題について考えていただければ、
幸いです。
あれから、ヒヴァでちゃんと体を洗いましたよw
ヒヴァからアルメニアに着くまで、全てトランジットビザ
での移動だったので、この旅始まって以来の大急ぎ!!
そのために、更新が遅れたことをお詫びします。
早朝にトルクメニスタンへと出発。
深夜に首都アシュガバードに到着。
3日目にはカスピ海に臨む港町、テュルクメンバシュへ向かい貨物船に乗船。
4日目には、カスピ海を横断し、アゼルバイジャンの首都バクーにいました。
5日目には、イランとの国境付近の町、アスタラで一泊し、
6日目には、イラン入国。
7日目は、”世界の半分”エスファハーン。
8日目は、ペルシャの遺跡が美しいペルセポリス。
9日目は、イスラム教シーア派の聖地、マシュハド。
10日目は、イランの首都、テヘランで過ごしました。
11日目の14:00に、アルメニアの首都、イェレヴァンへと向かうバスに乗り込み、
12日目の2:00に国境を越え、13:00にイェレヴァンに到着。
イランではテヘランで一泊以外、全て車中泊。
またしても風呂に入らない生活を強いられていましたw
それにしても、この12日間は内容の濃いものでした。
イェレヴァンにいる間に報告していきたいと思います。
では、まず前回の“過酷なバス”の続きをどうぞ。
窮屈なバスから、砂埃に覆われ色あせた看板が並ぶ
町の入り口へと降り立った。
ここが“船の墓場”の町、モイナック。
そこからタクシーで、町に一件しかない、
ホテルへと移動した。
ホテルへ向かう車中、窓から見える光景といえば、
地平線と砂漠、廃墟と化した無数の建物
子供のころに見た、世紀末を舞台にした
アニメの世界観にそっくりだった。
“世界の終わり”とはこんな感じなのではないかと
想像させられる。
ここがその昔、港町として栄えていた姿を想像させるものは
見当たらなかった。
ホテルに着き、部屋を取ろうとするが、
3日前から、中国系企業の従業員が
30人近く宿泊しているため、満室だといわれる。
どうやら、石油会社の試掘作業員のようだ。
他に泊まるとことがないため、庭にテントをはらせてくれないか
と交渉する。すると、従業員の方が
自分の家に泊まっても良いと言ってくれた。
恐らく私達の姿があまりに悲惨だったのだろう。
(前回、恭平が書いている通り、今回のバス移動はかなり厳しいものだった。)
荷物を置かせてもらい、夕焼けに染まる町を散策してみることにした。
ホテルの裏手に、モニュメントがあるという。
世界大戦で戦死した人への祈念碑だそうだ。
無人のビルと傾いた電柱を眺めながら、
砂で覆われた道を歩く。
モニュメントは、町が一望できる丘の上、
町の反対側へ、どこまでも伸びる道路の横に
忘れ去られたように立っていた。
そこから、かって水平線があったという方向を見渡す。
砂と岩、背の低い草木が永遠と続いているだけ。
そこに水の姿は見当たらず、ただただ
深くなる紫色と、緑が点々と入った砂色のコントラストのみ。
崖の上から、下を見下ろし、
昔あったはずの湖の姿を想像してみる。
潤いを含んだ風が頬をなで、
船の明かりと、今よりもっとにぎやかだっただろう
町の様子を。
<かってそこにはアラル海があった。
世界で第4位の巨大な湖が。
しかし、ソビエト時代、経済の安定と食糧危機
を解決すべく、綿花と農作物生産のために、
アラル海とそこに流れ込む川(シルダリヤ川とアムダリヤ川)
からの灌漑が始まる。海に流れ込む水の量に対して
あまりに多くの水を灌漑しすぎたため、
80年代には1/10の水しかアラル海に流れ込まなくなっていた。
アラル海の消滅は人間の手によって引き起こされた、
最悪の環境問題といわれている。
1986から1993で16メートルもアラル海の水位は低下
東から80Kmに渡り乾ききる。
結果、アラル海は1987年に北と南に分裂
モイナック、カザフスタンのアラリスクは
6万人もの漁業関係者が生活を営んでいたが
今では2千人にまで人口が減った
アラル海にはもう魚はほとんどいない。
20種類を超える絶滅危惧種も
1985年には全て消え去った。
過度の灌漑による産卵や生息場所の減少、塩分濃度の上昇、
周囲の綿花畑等からの農薬汚染による絶滅だった。
アラル海が乾ききることで周囲に環境もおおきく変化した。
空気が乾燥し、冬場の気温が低下、夏の温度も上昇。
雨の降らない日数は1950年では30~35日であったのに対し、
現在では120~125日までに増加。
こうして乾いた大地から、砂、ほこり、そして塩が風に巻き上げられ、
そこへ綿花生産のために使用される農薬の化学物質が混ざることで、
広範囲が汚染された。
これによりアラル海の南部、
モイナックからトルクメニスタンにかけて
人体に多大なる被害をもたらした。
体調不良や気管支の癌、肝炎などの病気が増加。
ソ連の中で、モイナックが一番、
平均寿命と出生率が低くなり、
奇形児、早産、流産の確率が高くなった。
新生児の死亡率が10人に1人。
イギリスでは100人に1人だということを
考えれば、驚くべき数字だ。
昔は、アラル海の周辺には森林が広がっていたが、
現在では1/5の大きさになっている。そのため、
1985年には173種類の動物が生息していたが、
現在では38種類まで減ってしまった。
また、水鳥も、生息地の減少により、
多くが姿を消した。
現在モイナックはアラル海から
150~200Kmかなたにある>
(Lonely Planetより抜粋)
次の日、ホテルから30分ほど離れたところにある、
“船の墓場”に訪れた。
映画の撮影で仕様されたため、白く塗られた「カラカルパキア号」の周囲に
5~6船の残骸を見ることができた。
赤茶色に変色した船体だけがただ、昔の町の記憶を残したまま、
風化しているようだった。
以前は、あたり一面に、動けなくなった
船たちが取り残されていたらしい。
しかし、昨今の鉄の価格上昇に伴い
錆の少ないものは回収されていったそうだ。
遠くからでは分からなかったけれど、
小さな水たまりが点在していた。
水溜りの周りには白い、雪のようなものが
固まっていた。踏みしめると
ザクザクと音を立てた。
地表を覆う塩の塊だった。
一隻の船の残骸によじ登り、この奇妙な景色の中で
人が生きることと自然との関係について、
しばし考えた。
モイナック最後の夜。
ジャガイモの煮込みとトマトサラダ、
ナンとチャイをおいしくいただいた。
ホームステイをさせてもらっていたお宅のお母さんに
モイナックのことについて教えてもらい
(ロシア語なので、フィーリングで理解したつもり)、
子供と「アルプス一万尺」をして遊んだ。
ホテルも私達の泊まったお宅も水道がなかった。
ポットにぬるま湯をもらい、
手足と顔を洗わせてもらいながら、
ここの人々はどうやって入浴しているのだろうと不思議に思った。
翌日朝7時、バスに乗り込んだ。
教科書の写真で見ていた町、モイナックを後に
次の目的地ヒヴァへ向かう。
と、Lohasについて考えるLohaspacker真野は慣れないシリアス文体で書きました。
日本とは離れた場所の問題ですが、皆さんにも少しだけこの問題について考えていただければ、
幸いです。
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